
私にとっての表現――絵画の現在」
日時 5月13日 2:00PM〜4:30PM (先着80名 会場費500円)
会場 本能寺文化会館第5会議室 (御池通川原町西入、TEL075-231-3123)
太田垣實さん(美術ジャーナリスト)の司会で、先生を囲む気楽なお話の場びです。

太田垣 たくさんの方がお集まりくださいましてありがとうございます。司会の太田垣です。京都新聞の美術担当の論説委員をしております。京都新聞には毎週土曜日の朝刊に美術の特集頁がありまして、50年くらい続いています。京都新聞だけの特色です。京都には国宝指定、重要文化財がたくさんあり、明治までは日本の美術の中心は京都でした。古美術もたくさんあります。近代の日本画、洋画、工芸作家が京都で活躍してきたわけです。ギャラリーも美術館も博物館も多く、人口140万の都市の規模からすると美術的な環境は大変恵まれている。土壌も豊かである。そういう美術都市ですから京都新聞に美術の頁を作ることができるわけです。今日の方々は洋画の独立美術協会会員の方々です。京都新聞は独立美術展の共催をさせていただいています。皆さんのお話を楽しみにしながら進めさせていただこうと思っております。まず出張トークの仕掛け人の一人、平岡さんからお話をしていただきます。
平岡 「Present―時―」は今年で4回目です。独立展においては関西の作家と関東の作家の作品と見比べるわけではないですが、何か違った面を感じて、そういう作家の中に僕の作品をほおりこむことによって刺激が与えられてやってきました。独立展が地方に巡回してきた時、大作の作品は見ていただいているのですが、これまで中小品を見る機会がなかなかありませんでしたので、関東の先生方の中小品をぜひ京都で発表していただきたいと、ギャラリーヒルゲートに声をかけ、快く承諾していただいて、この展覧会を企画したという経緯です。
太田垣 皆さんから一言ずつ自己紹介を兼ねてお話していただきたいと思います。安達時彦さんから、独立展への出展、洋画をめざすようになったきっかけ。キャリアを積まれて今、どういうことを大事に表現されようとしているのかということなど。
●自分をみつめて自然に帰る
安達 なぜ独立展なのか。なぜ絵描きになったのかと仲間と話し合ったり、美術学校の学生に「どうして絵描きになったのですか」と聞かれることもあります。僕の場合は理由が曖昧なんです。大学を卒業したのが1969年。その頃は70年安保があり、公募展に出す者は潔くないという時代背景がありました。才能あるカッコいい奴は外に出て、公募展や体制を壊せとか、学生が赤いヘルメットを被って美共闘でワッセワッセとやっていた時代に卒業したわけです。今だからこそ、こういうことが言えるのですが、その時は考えることができなかったのですが、自分を見つめることしかないので絵描きになったと思います。小さい時から「ご飯だよ」と言われても「ウン、今行く」と言って遊んでいた。高校の先生から「そういうものを何か見つけてごらん」と言われて、自分を見つめることが大切だ、それには絵を描くことかなと思ったわけです。
大学では山口先生のもとで、モダンアートだったのですが、東京都美術館にアルバイトに行っている時、公募展の搬入、搬出を目のあたりに見るわけです。独立展は活気があるなと皮膚で感じて、それだけで出したんです。しかし、ボタンをかけ違ったかなとずっと思っていました。なぜ洋画なのかという意識がまるでなく、出してみると、独立展はゴテゴテして、もともとフォービズムから始まった会で、自分の思いをモロに画面に出していくという伝統がありますから。醒めたところで自分を見つめていると、体質的にも違う。日本画の創画会に出せばいいのではと言われる。そうかなと思ったりもしました。
これからも自分を見つめて、夢や形とかを自分と等身大で、いい気分になれるような表現をしていきたい。自然に帰る、人も自然の一部だから。今、自然が大事にされる時代になってきましたが、自分と自然とが自然体であることを強く思っています。私と今、現在の時代性と私自身が自然になっていければいいという願いを長く引っ張って仕事をしているつもりです。
太田垣 安達先生の絵をご覧になった方も何となくわかっていただけたと思います。油絵の具を使いながらちょっと日本画的な絵を描かれています。次に、福岡奉彦さんから。
●独立展の魅力
福岡 生まれは九州の佐賀県で、今は埼玉県の入間市に住んでおります。独立の会員ですが、毎年秋に東京都美術館で開催される独立展覧へ出品している大作を巡回展に出しておりません。巡回展には200号の額縁を入れ替えないといけないんで、そういうことが面倒くさいのて出していませんでした。大変申し訳ないと思います。1年に1度独立展に出品する私の200 号の作品を見てもらった方がわかっていただけると思いますが、今、ヒルゲートに出している作品とは少し意味合いが違うと思います。
なぜ独立展に出し続けたかというと、私の先輩に独立の斉藤研先生、今井信吾先生、絹谷幸二先生、大津英敏先生たちの仕事をなさっている姿を学生の時、かいま見ることができ、そのことが目に焼きついているからだと思います。また会員になったあとは、会員同士が切磋琢磨して200号の大作で競い合うことが一番の魅力だと感じております。他の会では小品化されていて、今のところ、独立展と二紀展が大作でしのぎを削っている会ではないかと思います。大学は武蔵野美術大学で大学院は東京芸術大学で山口薫教授の教室に入りました。昔の文藝春秋画廊のショウウインドーに先生の飛行機の絵がいつも飾られていて、ああいう先生に学べたらいいなと思っていました。ところが院に入って1年目に山口先生がお亡くなりになり、僕はどうしていいかわからなかった。せっかく何か教わりたいと思って大学院に入ってきたのに先生がいなくなった。2年の時、野見山暁治先生が来られました。しかし山口教授を志望して入学してきた学生たちなので指導をご遠慮されていると感じました。その2年間、大学院に何しにきたのかと思っていました。その時の授業料は半年で9000円くらいで安かったです。そのうち銅版画のパイオニアでもある駒井哲郎先生を知ることができて、中林忠良先生も知り、版画の教室を再び受験しました。2年間、版画の中の銅版画にはまりまして、5年間、助手に残していただいて、版画と油を40歳まで半々くらいでしてきました。しかし油絵は一度、独立展で独立賞をもらったきりで油絵の仕事は低迷していました。そんな状態の時、ある画廊の人に「そんなに出してだめならヤメナハレ!」と言われました(笑い)。仕事のピークを過ぎてから会員になるくらいなら潔くやめたほうがいいと言われて、初めて版画の仕事を休んで、油一本の仕事になりました。版画と油の進め方は多少違うものですから、今の仕事の組み立て方も皆さんと少し違うもしれないと思います。
なぜ洋画を選んだかと言いますと、大学受験で油画科は3科目受験できます。高校の先生に「絵の世界に行きたい」と言うと「それじゃ勝手にしなさい」という返事で、またそういう返事が心地よかった。しかし絵の世界で生きることは大変なことです。今、新潟県にある上越教育大学に勤めていますが、そこで貰う給料はほんの少しずつでも上がっているのですが、絵の値段は上がっていかない。大きな悩みです。絵での今後のことを考えるちょっと不安です。若い時、50歳を過ぎたであろう人をみると、豊かで、人生に迷いはなく、皆、スーパースターのように見えたのですが、自分を見てみると迷ってばかりいる。自分自身の表現として絵で表現することを自分が選んだのに未だによくわかっていない。ただ、自然から受けたイメージを大切にしていくしか私にはないのではないか。それを自分なりに組み立てていって表現していくのが自分の仕事だろうと、そういうことを思って今のところ描き続けております。
太田垣 とても正直なお気持ち、絵の背景にあるお考えを伺いました。次に、向井隆豊さん、お願いします。
●自分の内面を新しい表現で
向井 僕は安達さん、福岡さんより年齢的に若いのですが、高校を卒業した年、東大入試がなかった時、学生運動が盛んだった時代です。高校では絵を一生懸命描いていたのですが、頭デッカチなところがあって、『美術評論』を読むのが好きでした。当時は中原、東野、針生さんなどが頑張っている時代で、理論的なことにも興味を持っていました。高校の時は美術の先生の影響もあり前衛美術にも興味があって、美術方面に進むのだったら新しいことをやりたいと考えていました。芸大受験に落ちて、一浪中は新宿とか高田馬場を学生が占拠していた時代です。東京に出てきて研究所に通いながら、デッサンしていても何か古臭いことをやっている、つまらないなと思っていまして、街の画廊でインスタレーション的なものを見たりして、当時は多摩美が新しい美術中心で、学校の封鎖中、渋谷のマンションの一室で自主講座を開いていたので、僕は中原さん、東野さんの授業を聴講にいったりしていました。
なにか石膏デッサンを描いている人をバカにしているようなところがあって、しかし表現したいという意欲はがぜん持っているのですが、技術が蓄積されないから一浪目も受験にすべって、こんなことをしてたんじゃだめになると思っていた時、高校の同級生の女の子から「東大と芸大が両方受かったけど。どちらもよい大学だからどっちにするか迷っています。向井さん、今度会って相談にのっていただけないですか」と言われて、その葉書を読んで涙が出てきてとまらない(笑い)。当然会わなかったですけど。その人は当然、東大に行って、結構活躍しておられるのですが。
浪人している間に、街の画廊を見ていて、当時新しいことをやっていた人が、時代が変化する中でだんだん元気がなくなってくるように感じていました。1960年代から今年2000年になって、その当時、ダダとかデュシャンの後に開けていくと思っていた美術の世界に限界を感じ、その先があると思っていたのが、それを押し進めた表現が見えてこない。僕の感受性が鈍ってきているとしても、僕が高校時代に見たような表現と同じものが、今、名前を違えてやっているような感じを受けることが多い。インスタレーションでモノを置いてみたりしているけど、僕が20歳くらいで見たものとそう変わらないと自分の中では思える。逆にタブローの制限の中でやっている仕事に、却って新鮮なことを感じたりする。自分の中で新しい表現をしたい、額縁を外れて違うことをやってみたいという思いはありますが、若い時の屈折時の前に戻って、同じようなところに行くことに抵抗感を感じています。周りからは中途半端に見えると思います。自分の中ではキュービズムからピカソや立体派になって未来派になり、デュシャンになった。若い時は美術の新しいページを少しでも押し開くことが重要だと思っていましたが、今は、自分の内面の表現について興味があります。環境芸術的なことをやっている友人もいるし、油を描いている友人もいる。どっちが新しいとか良いとか思わない。その人が何を表現しようとしているか。何を持っているか。その人がやりたいことを見ればいい。やっていることの形、所属している分野を重要視しなくなってきていると思っています。具象と抽象の論争が、安井賞の初期にはあったと思います。具象と抽象が別個の世界で、どちらが表現として適切か、上か、そのような意識もあったと思います。今はそういうふうには思わない。抽象だろうが、具象だろうが、人間として表現したいものがあるか、様式ではなく内容に興味を抱くようになってきています。
いろいろなことを考えて団体展に出すことも悪くないと思っています。昔、美術の本を読み、画集を見て、自分が好きだと思った作家が圧倒的に独立展の人に多かった。表現の場として、ここなら自分がやっていけるという感じがしたのです。コンクールや街の画廊で発表するのは、単発的には良いかもしれませんが、たくさんの人に見てもらって、自分のやりたいことを磨いていきたいと思う時、団体展出品も一つの大きな選択肢です。コンクールの賞をめざして、その時代に合わせて描いても次に審査員も変わるだろうし、コンクール的なものを追っていくより自分の中の問題を稚拙でもいいからやっていく中で、少しずつ固まっていく継続性を選んだということだと思います。今の団体展には美術運動としての要素はなくなってきていると思います。しかし私の所属している独立美術には作家の熱き思いとその思いを作品に表現しようとする意欲を感じています。そのことは時代や表現か変わっても作家にとってもっとも必要なことだと思います。情報と発表する機会、場が広がっています。自分の中で発表の場としてどのような場を選ぶか決めればいいと思います。
太田垣 次は、瀬川富紀男さんにお願いします。
●日本的な表現を探る
瀬川 京都で展覧会は初めてです。出身は九州の熊本です。高校の美術部に油絵があったということで東京に出てきて芸大に進みました。学生時代にこだわったのは神田日勝という北海道の農民画家で、独立展に展示されてあったんです。22歳の時、それを見て、賞も何もついていなかったんですが、僕は生まれて初めて、こんなすごい作品に出会った。これを見殺しにする独立というのはどういう会なんだろうというこだわり、恨みみたいなものもありまして、こだわりながら独立展にその後、出品することになりました(笑い)。 今日の会は、フランス語でプレゾンと発音し、現在、出席している、贈り物等の意味がありますが、もっとわかりやすいタイトルの方がいいかなと思います。92年〜93年、文化庁でパリの美術学校に行かせてもらいました。日本は明治以来、ヨーロッパから新しい絵画の表現を輸入してきた。僕は、そうではなく、ヨーロッパにないものを探そう。ヨーロッパに特徴的なものを持ってくるのではなく、日本にあって向こうにないものは何だろう。それを探してみようと。僕の描きたいものは日本の現状であって、向こうにない特徴的なものを描いてみたいというのが、ずっとテーマになっていると思います。
自分の可能性を開くことも大切ですが、自分を制約することによってはっきりした表現が見えてくるのではないか。ショックを受けたのですが、今週の歌謡ベストテンで理解できたのは一つ、「孫」だけで、後は意味がわからないんです(笑い)。僕も時代遅れになったなと思いました。しかしわかったふりするより「孫」と一緒に心中した方が自分らしい表現ができるのではないか(笑い)。自分を制約して表現を研ぎ澄ませていく方向で、できることは何かと考えています。今回の展覧会は急なお誘いで作品が間に合わなくて、以前に描いていたものも含めて出しました。
太田垣 瀬川さんの絵は都会的な感じですが、お話に出てきた神田さんの素朴で土の臭いのする絵を思い出しながら伺っていました。最後に、本田希枝さん、お願いします。
●自分を表現するには絵しかない
本田 皆さんのお話を聞いていて、私は主体性がなく生きてきたなと実感として思いました。学校に行ったのも国立しか行けなかったのと、3科目だったのは芸大だけだったという理由からです。絵は嫌いではなかったんですが、大学に入って、5月くらいに行きたくなくなりました。大学は自分で目的を探すところなんですが、小田原から芸大に行った人がほとんどいなくて、ずっと一人だったもので学校を早く辞めたいと。でも、同級生で色彩のきれいなデッサンをする人とか見ているうちに面白そうだなと4年間いました。安達さんと福岡さんは同級生です。男女を越えた、いい友だちでいます。あの時代はある意味で神様を持てた時代でした。上野の下の方を山口先生がほろ酔い加減で歩いていかれるのを歩道橋から見て、ああ、あれが先生だと。言葉で教わらなかった分、姿を見ることで何かを感じるという経験をしました。牛島先生もほとんどものをおっしゃらない。サングラスをかけて「そこの色がいいね」と言って(笑い)。言葉で説明しきれない何かをいただいた、私たちはその最後の時代だったのではないかと思います。いい時代にめぐりあったな、先生たちに出会えてよかったと思っています。
引っ込み思案だったので、どこにどう行っていいかわからない。うろうろして劣等感だけが強くて、入ったけど、いいのだろうかと思っていました。うまくもないし、どうしようと思って。奨学金をもらったので続けないといけないと何となく続けてきました。私の場合、自分が作る節目ではなくて、奨学金をもらうとか、独立で賞をとれるようになったとか、会員になったとか、自分がやらないといけないということではなくて、川の流れのままで、主体性がなくて恥ずかしいのですが。絵をどうしてもやりたいというのがなかったんです。今、この年になって、自分にとって表現するのは絵じゃなくてもよかったんだけど、絵しか描けなかった。絵を表現手段として自分を探していこうという気持ちになりました。油絵の具が大好きなんです。粘着力が好きで油絵の具をこれからも使っていきたい。1か月くらい絵を描かないで音楽だけを聴いている時があったり、本だけ読んでいる時があったり、ちょっと焦るんですが、絵を描かなくても平気でいられるんです。出品するのは私には意味がないんですね。描いている過程だけが好きなので、完成させて出品することに執着を持たないので案内状も出さない。どうしても見てもらいたいというのが自分の中にないんです。自分でやっていることに執着がある。夫が絵を描いていまして、私の直接の師匠は夫だったのではないかと思っています。いろんなことを言葉ではなく画集などで見せてくれて教えてくれた。子どもが今年大学に入って、ロックとかいろんな音楽を持ってくる。ビデオを見せてもらったり。外からの情報、子どもが持ってくることで私にプラスになるということがあります。でも自分自身は真面目なんです。劣等感に苛まれていた人生でした。学生時代もそうでしたが、一つの劣等感が消えた瞬間、また次の劣等感が襲ってくるのでちっとも楽しい思いをして絵を描いたり出品したりすることがなかった。なんで今まで絵を描いてこられたのか不思議な気がするんですが、周りの状況が私に描かせてくれたのかなと思います。林武先生の話を聞いたりすると辛いんです。自分がそういう努力をしてないから。なるべく絵描きさんの書いたものを読まないように文筆家のものを読んで。皆さんの話を聞いていると偉いなと思います。夫に画集などを見せてもらうことが私にとってよかった、いい夫に出会えたなと思っています(笑い)。
●美術界の変遷
太田垣 一言ずつお話をしていただきました。最近の美術界の状況について。実は、6、7年前、全国紙の朝日、毎日、読売が、秋の公募展の展覧会紹介をするのを期せずしてやめたんです。そのあたりから公募展に関して従来とは違った見方がマスコミでも出てきました。独立展の60回記念展の時、昭和6年の第一回独立展の特集号を「朝日グラフ」が別冊で出したのですが、それを復刻しました。それだけ当時は公募展が注目され、力を持っていたわけです。今日ここに持ってきましたのは、最新号の別冊「朝日グラフ」でドイツに住んで絵を描いている奈良美智の特集をしています。彼の絵は子どもをモチーフにして描いたものですが、ちょっと見て可愛いけれども、不気味で何か訴えたいような存在感がある。最近の「朝日グラフ」の美術特集を見てみますと、コンテンポラリーの作家の方が多い。戦前の公募展と最近の現代美術作家の特集、対比的で面白いなと思いました。毎日新聞社主催の現代美術展はコンテンポラリーの作品が中心だったのですが、近年の傾向はコンテンポラリーの人たちが出さなくなっている。従来からある公募展の人たちが出品する傾向が強い。その毎日現代美術展も今年で終わりになり、安井賞展もなくなりました。今、洋画を支えてきた環境が厳しくなってきているのではないか。こういう状況をどう見ておられるのかなと、あえて伺ってみたいと思います。
●公募展の面白さ
向井 独立展は今年68回です。創立会員は亡くなって、初期から出している人もほとんどおられなくなっている。歴史を積んでいけば、いろんな問題を抱えることはあると思います。会員になって審査するようになり、そういう歴史を積むことで抱える問題がたくさん出てきていると考えます。東京都美術館を借りてやりますが、独立展は応募していただく方が多いので、審査会場の隣の会場を借りないといけない。壊れやすいものも来る。額縁とか大きさとか芸術とは関係ない制限が出てきます。読売アンデパンダン展も展覧会会場の制限でできなくなったと聞きます。運営面の制限など、純粋な作品とは関係ない問題も出できます。以前から出品していた方が、時代と合わなくなって落ちることもあるわけです。矛盾が出てくることは如何ともしがたい。人間がやることに人間が評価するわけですから、いろいろ難しいこともあると思います。
福岡 僕は日本画の展覧会をよく見ますが、日本絵画という意味では油絵も日本画も同じ位置にあると思っております。インターネットが出てきて今の世の中、物事の進展が非常に速く感じております。そういう世の中で私はアトリエに閉じこもって、シコシコと時給70円くらいの絵を描いていいのだろうかと思うがあります。学生に聞くと「アルバイトの時給は安くって700円です」と言う。「僕の時給より高いじゃないか!」と笑うんですが(笑い)。私はかなりショックを受けているわけです。
今から5年くらい前、奥谷博先生が独立展に150号の作品を出品された。朱の鳥居があって「心」という文字があり、鳥井の真ん中にある意志をもった自身の須田が描かれ、背景には弾劾の風景と船が海に浮かんでいる。その絵を見た時、日本絵画のある方向をみせられたように感じました。独立展にどんなことがあっても出し続けようと改めて思いました。
また、私にとって公募展は、ある種の面白さもあります。飾りつけの時、いろんな人の作品を裏から見ることかできます。キャンバスの使い方もいろいろあるものだといい勉強にもなります。また画材屋さんを大切にしたほうがいいと思います。画材はどんどん新しいものが出ていますし、会員の誰がどういうものを使っているかを知っています。それなら私も使ってみようかと思う。自分の新しいチャレンジのため、画材屋さんと仲良くすることをお薦めします。そして公募展ではお互い締切日が同じですから、嫁さんに「どこかにつれていってよ」と責められても、他の人たちも同じ状況だろうなと思うと、日頃怖い嫁さんを強く諌められます。ここにいます安達君が200号を2週間で描き上げたと平然と言うのに、私のように時間がかかっても作品が弱く見えたりすると、何のために時間を費やしたのだろうと思うこともあります。
近年、公募展のニュースを新聞紙上で扱わなくなりましたが、誰か一人でも私の絵を見続けてくれている人がいれば、その人のために精一杯描けることは絵描きとしてありがたいことだと思えます。今、市場で活躍している大竹伸朗君を武蔵野美術大学で教えたことがあります。彼は大学で学生として確かに浮いていました。しかし、人のしないことをやっていた。時代を見ていた。アフリカが面白そうと感じたらアフリカに飛んで行く。シンガポールが流行りそうだと思えば人より早くシンガポールに行く。若い女性たちに絵を分割で売り、絵画を身近なものとした。私の絵も誰かが分割で買ってくれないかなと思っていますが(笑い)。
公募展にせよ、グループにせよ、お互いに作品で刺激しあうことはとてもいいことだと思います。この頃、日本人としての絵画はどういうものかということを考えることがあります。日本人としてどういう表現があるのか。同時代の空気と時間を共有して、皆、それぞれ考えながら自分自身を表現している。ある時は落ち込んだり、ある時は勇気づけられたりする。だからこそ絵を描き続けられているのだと思います。
安達 僕は2週間で200号を描くなんてことはありません(笑い)。今日は皆さん、正直に話をされて、本田さんは周りの人を安心させてくれるし、今日はそういう場だったのかなと(笑い)。学生が画壇に入っていこうとする時に、公募展に出しなさいと言います。経済的なものと制作とのバランスを長くとっていかないと難しい。自己設定していかないといけない。入り口は公募展がやりやすい。自己設営しないと、よその人が自分の絵を説明してくれないですから。誰が金を出してスポンサーができたりという夢みたいなことはありえない。安い出品料で自分で運べばいい。審査される緊張感もあります。公募展も功罪はありますが、いい部分を見て自分で精一杯やることだと思います。
時代はどんどん進んでいます。これではいけないと思っていても時代は進まざるを得ない。その中にあって、自分を見つけていかないと流されます。今は、戦後を検証する時代が来ていると思います。次の時代に進むために今までのことをしっかり検証しなければいけない。誰も、公募展はどういうところに行くのか答えられないと思いますが、その方向を探るためにも今までのものを検証しなければいけない。日本でも戦後の美術を振り返る展覧会が増えていると思います。アメリカでもポップやジャスパーやランシェンバーグの懐かしい展覧会をやっていました。アメリカも検証しているんだろうなと思いました。時代性を感じながら、それでも公募展は続いていくだろうと思っています。
●評価について
太田垣 若い時、独立の会員の安田さんと議論したことがありました。公募展と対極にあるものとして町の画廊の個展がありました。僕は、公募展より個展中心がいいのではないかと言って議論になりました。安田さんは個展は一人よがりになる。公募展でたくさんの作品が並ぶと、自分の作品の内容がわかる。たくさんの中で自分の作品を置いてみることに意味があると言って譲らない。懐かしい思い出ですが、公募展の置かれている状況について、瀬川さんはどう思われますか。
瀬川 公募展の新聞の紹介の仕方が、ただ名前が挙げているだけで、そういうものならなくなってもいいのかなと思っていました。10年ほど前に毎日新聞で、斉藤研さんと僕だけを取り上げてくれた評があって、こういうのならいいなと(笑い)。ただ個展は一人よがりということもあるし、入場者数が少ない。独立展は巡回展を含めると5万人の人が来ます。日展は100 万単位になるそうで、僕も鞍替えしようかと思ったこともありますが、多くの人の目に触れることは評価される機会も多い。独立展は向井さんの骨折りでインターネットで載せています。“dokuritu" で検索すれば出てきますのでご覧ください。
評価の問題だと思うんです。文化勲章を頂点として日本芸術院のような評価が本当にいいのかな、どうでもいいんじゃないかと自分では思っています。評価は本人の評価と社会的評価があると思います。今、大阪でフェルメールの展覧会をやっていますが、フェルメールは20世紀になって注目を浴びました。評価は作家の持っているエネルギー、作品の魅力もさることながら時代の要請で評価が固まってくるんじゃないか。若い作家が時代を追いかけて、受ける作品を描くことも一つのやり方ですが、時代まで我々の力で読めないわけだから自分の認識に忠実にやっていくことだけが頼りです。結果的にどういうふうに評価されるかは我々の関知するところではない。後は運に任せるというか、それでいいんだと思います。
本田 私は公募展に出してよかったと思っています。公募展はコンクールと違って一発勝負ではないので、皆、去年、一昨年の作品を知っているわけです。独立展に出していいなと思ったのは、独立の会員は、絵をみる時、真面目に見ているのが独立の好きなところです。私は引っ込み思案でしたから、公募展がなかったら続けていかれたかどうか。何も言わなくても出品票と絵を持っていってお金を出せば審査して並べてくれますから。消極的な方法ではありますが。アメリカなどと違って、自分をあまり主張していかないのが日本人の民族性じゃないかと思います。そこに生まれて私にとってはありがたいと。個展だけでやっていると自己満足の世界に陥ることが大きい。絵は個の問題ですから、誰かと比較する必要はないのですが、何年も前から絵を見ていてくださる人がいるというのはうれしい。今なぜ公募展かということ自体、ある意味でおかしいと思っています。
なぜ現代展がなくなるのか。以前は、批評家や絵描き自身が議論して自分たちの気持ちを高ぶらせて悪口も言うけど褒めることもある熱気のある時代でした。涙が出るくらいうれしくなっちゃう。そういうのが今なくなってきた。評論家がどのように評価したかによって自分をはかる。私はそんなふうに感じます。昔は絵描きが絵描きの絵を見ていた。今は絵描きの方が評論家に見てもらっているという感じがする。絵描きもだらしないと思うんですが、評論家も思い上がっている。同じ土俵でホンネで話し合っていかないと、公募展云々の話はできない。私の抵抗の方法として、評論家とは距離を置いて話をしないようにしています。批評をする人が、自分自身、どのように考えているか明示してほしいと思います。コンテンポラリーが好きでよく見に行きますが、どこかで見た絵が多い。これを取り上げている評論家は最後までこの人と心中する気持ちがあるのかと思います。次に新しい人が出てきたら、また次に行ってしまう。それが現代展が終わることとつながっているのではないかと思っていますが。なぜ時代に合わなくなってしまったかを考えてみると評論家自体も流行に流されているように思います。私は自分の絵を自分で描いていきたいと思っていますが、学生も根気がないから出品して一度だめだとすぐやめてしまう。出品が減っている傾向はあると思いますが、公募展をなくしていくのではなく、地下水のように続けていけば、きっといいものが出てくると思う。今は耐える時代かなと。会員だけになっても続けていったらいいなと思っています。
太田垣 美術ジャーナリズムも現代は難しい時代になっています。昭和30年頃に出た『画壇』という本が面白い。レオナルド・フジタが戦争中に戦争協力の絵を描いたというので戦犯に問われた当時の経過が詳しく書いてある。日展から上村松篁さんたちが創造美術(現在の創画会)の会を開設するというのが社会面の特ダネ記事になっている。小説家の井上靖さんが大阪毎日新聞の美術記者をしていた時、東京と連絡を取り合って書いた。当時の新聞は4頁くらいですが、3段記事の扱いになっている。今、日展の若い人たちが新しい会を作ると仮定すると、どれだけの記事になるか、おそらくならない。画壇の権威が弱くなってきている。美術が拡散してとしてきている。戦前は公募展を中心に取材していればよかった。今は美術館もたくさんできて、画廊もコンクールもたくさんあって、町のギャラリーで個展をすることも避けて、もっと違う面白いところで何かをしようという若い人たちがいる。我々は絶え間なく広がっていく相手に、取材活動をしていかないといけない。評論家も画壇だけを見て書いていればカバーできる時代ではない。現代美術でいえば御三家だった人たち、中原、東野、針生さんたちも今は難しい時代だという認識を持っている。美術評論の価値、判断自体が、こういう作品がいいとかいいにくい状況になっている。美術ジャーリズムに生きていても、どういう形がいいか日々自分に言い聞かせながらやっています。
●フロアから
太田垣 会場の皆さんから質問を受けようと思います。
―― 絵は40歳すぎたらあかんと言われましたが(笑い)、私は子どもの頃、絵を描いたら親から怒られて絵を描かなくなりました。でも絵描きに対する尊敬の度合いは人一倍強くて、60歳すぎて絵を習いだして今、はまりかけています。40歳すぎたらあかんと言われて悩んでいるんです。本田先生の言われる落ち込みとは全然違う。もっとひどい劣等感が世の中にはあります。趣味の絵描きでも夢だけは持ちたいので、絵と年齢の関係を。
本田 丸木スマさんは70歳になって絵を描かれるようになったそうです。描きたい時に描かれたらいい。描きたいという気持ちがあれば年齢は関係ないと思います。劣等感はそれぞれの価値感で、だめだなという気持ちは皆、同じだと思います。丸木さんは高齢になってから絵を描き始めたということだけでも、人に希望を与える人だと思います。
―― 平岡先生は自分の絵の話はされないのですか?
●心が共鳴するものを描きたい
平岡 僕は、年齢的に言うと皆さんより年上なんですが、会員になったのは遅いんです。先輩の先生方と審査で東京に行ってお会いしているんですが、こういう話を聞かせていただくのは初めてです。先生方のホンネやシビアな話を聞けてよかったと思っています。ヒルゲートで先生方の展覧会をやっています。それぞれの作家の作品を見ていただきたいと思います。本田さんは引っ込み思案と言われるけど、作品ではストレートに気持ちを示しておられる。色を見ているとクールな中にホワイト一つでもあたたかさの色調がある。先生方の今の時、その作品を見てもらうことは意義のあるものだと思います。これだけのメンバーが京都で展覧会を催すこと自体、すばらしいと思いますから。
先生方のお話を伺っていて、僕自身が大学に入ったきっかけを思いだしていました。洋画、油絵を選んだのですが、今はアクリル絵の具の可能性にも挑戦してみたいと思って使ってみています。なぜ油絵を選んだのか。最近、古い開かずの扉を整理していて、古いものが出てきました。卒業した頃、自分なりの世界を見てほしいなという気持ちがあって、発表する場を選ぶのに独立展と国画会の要綱を取り寄せたんです。周りの先生方が独立に入っておられたので独立展を選んだのかもしれない。自分をその場にほおりだすことで、作品がどんなふうに見えるかと考えたと思います。よく、僕の色調が須田国太郎に似ていると言われますが、今、アクリル絵の具を使っていると、油だけで描いてほしいと言われることもあります。
―― 寂寥感がお好きなんですか?
平岡 よく見ていただいているんですね。自分なりに素直な感じを表現したいと思っていますが。独立展に年1回、東京に持っていく時、きばった絵を描かなければという感じで意識しすぎたりするんですが、もっと素直に描いたらいいですよと言っていただいたりします。自分自身が素直になれたらいいなと。自分のテーマ性は、自然に自分のそばに寄ってきてくれるもの、寂寥的なもの、現代の中にある恐怖が、自分と素直に共鳴する、通じるテーマ性なので、それに今のところはトライして、ものづくりしています。
―― 福岡さんは、なぜエッチングではなく油絵に切り換えられたんですか?
福岡 恩師である駒井哲郎先生のような作品ができなかったからです。池田満寿夫さんが初めて日本に銅版画の刷師というシステムを確立されましたが、今、芸大教授である中林忠良先生は還暦を過ぎておられますが、自分の作品は自分で刷られております。画集もすべて刷られてます。版画には限定枚数というものがあり、刷りという工程はまた別の意識も必要でして、限定枚数を全て自分で刷るという行為は私にとって脅威としかいえませんでした。その体力も才能も私にはなかったのです。中林先生が学生の私に言ったことは「版画が売れるなんて考えるなよ」でした。その先生が今、蓼科に別荘をお持ちなんです(笑い)。
今、私はアマチュアとプロの中間かなと思うことがあります。なぜかというと生活費は大学で働いた給料ですし、絵の材料もその中から買っていますから。絵だけでは食べられません。絵の僅かな売り上げは全て額縁の代金に消えていきます。また、描いていて元気の出る展覧会とそうでない展覧会があります。自分が引き受とけておいて嫌々ながら描いている時があるんです。その時、自分はプロじゃないなと思います。そういった訳で生活は貧乏そのものです。頑張ります(笑い)。
・・ でも、収入が安定しているのは先生ではないかと思いますが。
福岡 私は18歳まで九州・佐賀で育ち、それから東京で暮らし、武蔵野美術大学、女子美術大学等で非常勤講師をやりながら38歳くらいまで描く時間と生活が不安定でした。今、新潟県にある上越教育大学で美術を教えています。単身赴任で嫁さんの作ったおかずを持って、上越と自宅のある埼玉を行ったり来たりしています。浮き草みたいな生活です。示達は1階が小品を描く部屋と大作が描ける部屋のアトリエと売れない絵の収納庫で、2階が生活空間となっているシンプルな家です。しかし、埼玉の家は嫁さんに乗っ取られております。私は腰が弱いので大きなキャンバスが上下し、一定の位置で描けるようにしてあり、奥谷先生の助言でライトも上下するようにしてあります。私は夜中に上越と埼玉を行き来しますので、夜中に着いて夜中に描くから普通のアトリエのように窓はあまりいりません(笑い)。小品を描く部屋は集中できるように窓は最小にしてあり、密閉されるようにしています。昔から私は机の下が好きだったんです。暗くて狭いと何か安心できるんです。しかし、生活は全然安定しておりません。未だに貧乏です(笑い)。
●創作と評論の相関関係
太田垣 最初に気楽な雰囲気でと言いましたが、最後のところで気楽になったあたりで時間がきてしまいました。絵を描くことは人間が感情を表現する最初のものだと思います。絵の表現はこれからもなくならないでしょうし、公募展も続いていくと思います。
京都国立近代美術館の元館長で美術評論家だった河北倫明さんが、創作と評論について良寛さんの詩を引用しておられました。「花開く時、蝶来る、蝶来る時、花開く」。蝶と花は相関関係にある。評論と創作もそういう関係です。作品によって評論は鍛えられる。評論によって創作も鍛えられる。そういう関係を良寛さんの詩で表しておられたことを思い出しながら、今日のお話を聞いておりました。今日は皆さんから貴重なお話を伺うことができました。本当にありがとうございました。